京都の闇に魅せられて(新館)

京都妖怪探訪(29):六道珍皇寺・その1




 やってきました、六道珍皇寺。
 古来より「この世とあの世との境目」として知られ。
 また、「冥府の判官を勤めていた」との伝説もある平安時代の超人的役人・小野篂(おののたかむら)が冥土を通ったという井戸のある場所としても有名です。

 京都の妖怪・魔界関連のめぐりの旅では、絶対に欠かすことのできないポイントのひとつでした。
 この『京都妖怪探訪』シリーズを始めてから、「いつか訪れたい」「訪れなければ」と思っておりましたが、今年春のゴールデンウィークにてようやく訪れることにしました。

 というのも、先月29日から今月9日までの間、六道珍皇寺にて特別展が行われていたからです。




 この期間限定で、仏教の六道を描いたという「熊野観心十界図」など寺の宝物や、あの「冥土通いの井戸」などが特別公開されるというのです。
 私の場合は、連休中もあまり休める日がありませんでしたが、この機会を逃したくはないと、少し無理を押してでも、ここを訪れることにしました。
 夜勤明けはちょっときつかったのですが、それでも十分に有意義な時間を過ごすことができました。


 清水寺へ上がる五条坂(東山五条)の交差点を少し北上した場所にある、松原通りの交差点。





 この松原通と東大路通りの交差点を西に進みます。
 




 しばらくはごく普通の街中の通りの風景が続きますが……。
 



 
 少しいくと、道路北側の一角に見えてきました。
 「六道の辻」と書かれた石碑の立つ、六道珍皇寺の入り口です。
 特別公開の期間中で、しかも連休中だけあって、中には多くの参拝者や観光客、そしてガイドさんたちの姿が見られました。

 「六道」とは、仏教でいう天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六種の世界のことをいい、人は因果応報により(つまりそれまでの行いにより)、この六つの世界を輪廻転生(生死を繰り返しながら流転)すると言われています。
 「六道の辻」とは、この六つの世界の接点でもあるということです。


 入り口からまっすぐ、境内に向かって進みます。
 本堂の前に、石の塔が立っていました。





 この石の塔は「三界萬霊供養塔」というものです。
 ガイドさんのお話によれば、この石塔と石畳の道は「あの世とこの世との境目」をも表しているそうです。
 石塔と道を境目に、この写真の向かって左側(西側)が「この世」、向かって右側(東側)が「あの世」だそうです。
 この辺りには、古くは京の葬送の地・鳥辺野があり、その入り口にあたるのがこの寺だったそうです。
 そういうことから、ここが「あの世とこの世との入り口」という伝承が生まれたのでしょうか。

 ところでこの寺の始まりについては、「平安時代に弘法大師の師・慶俊僧都(きょうしゅんそうず)が開基した」という説の他、「弘法大師・空海が開基した」とか、「小野篂が開基した」など諸説あるそうです。


 境内の一角にあった閻魔堂という建物です。
 別名、篂堂(たかむらどう)ともいうそうです。





 中には、いくつか神仏の像らしきものがあります。
 その前には参拝者の方と……中のものを熱心に写生している方もおられます。

 閻魔堂の中を覗いてみると、中にはその名のとおり、閻魔大王と二人の名僧の像があります。
 この閻魔像は、小野篂自身の作だといわれています。





 ちなみに、閻魔大王像の下にある鏡は、全ての死者の生前の行状が映し出されるという「浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)」だそうです。
 私の場合も、今までにやってきた恥ずかしい秘密とか暴かれたりするのかな。
 そう考えれば、あまり悪いことはできないな、と思えてきます。


 閻魔堂の中には、江戸時代に作られたという小野篂の像が安置されています。
 左右には、小野篂自身の作と言われている、獄卒・悪童子と善童子の像もあります。
 




 小野篂が生まれた小野家は、古くは鉱脈探しと山の神への祭祀を行う一族であったようです。
 先祖には聖徳太子の側近で遣隋使の小野妹子。
 その孫には、絶世の美女として有名な女流歌人で、異能者としての伝説もあった、あの小野小町が居たという一族でもあります。
 小野篂自身も、優れた業績をあげて出世を遂げた、非常に優秀なエリート官僚であり、武術、学問、和歌に漢詩など、あらゆる分野に秀でた天才であったそうです。
 また、背丈が六尺二寸(180センチ以上)で、筋骨隆々たる美男子でもあったという、まさに非のうちどころのないような超人的な人物であったと伝えられています。
 一方で「野宰相」「野相公」などのあだ名もついた、非常に反骨精神の強い変わった人物でもあったようで、そのあまりに当時の嵯峨天皇の怒りをかって、隠岐に流されたこともあるといわれています。その時に詠んだのが、「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人にはつげよ 海人の釣舟」という小倉百人一首にも残っている有名な歌です。

 さらにこの篂には、「昼は朝廷に、夜は閻魔庁に勤めていた」という冥官伝説も残されています。
 『今昔物語』に伝えられている「病死した恩人を、閻魔大王に命乞いをして蘇生させた」などの伝説が残されています。

 なおこの寺の本尊は、平安時代の薬師如来坐像ですが、重要文化財に指定され、境内にある特別に造られた収蔵庫に安置されています。
 撮影許可が下りなかったので、残念ながらここではお見せすることができません。



 小野篂が毎夜冥府に行くために掘ったという井戸も、この寺の境内に残されています。
 本堂の片隅にある格子戸から裏庭の光景を覗くことができます。





 格子戸の向こう、裏庭の奥へと目を凝らしてみます。
 最奥に何やら祠か、お堂のようなものが見えます。
 その右端には、竹製の蓋で覆われた井戸が見えます。
 




 この井戸こそが、「小野篂冥土通いの井戸」だと伝えられています。
 祠は、篂が念持仏を祀ったという竹林大明神の祠です。
 もっとも、現在は井戸の中も埋められているそうですが……。

 その時は特別公開中でもあったので、本堂の中へと入ることが出来ました。
 本堂の中で公開されていました神仏画や地獄絵図などの寺宝に対しては、撮影許可が下りませんでした。
 よって、それらをここでお見せすることはできませんでしたが、本堂内から竹林大明神と、冥土通いの井戸を見ることができ、さらに裏庭と井戸の撮影許可は下りました。
 冥土通いの井戸をより近くで撮影したのが次の画像です。





 影でちょとわかりにくいかもしれませんが、井戸の手前の踏み石をよく見てください。
 小さな窪みがあるのが、おわかりいただけるでしょうか?
 ガイドさんのお話によれば、その窪みは、篂がこの井戸に飛び込む時についた足跡だそうです。
 あまりにも頻繁に、篂がここを通ったために、石に足跡が残るまでになってしまったとか……。


 この井戸も気になりましたが、私には念持仏を祀ったという竹林大明神の祠も気になりました。
 というのは、ガイドさんのお話によれば、ここに祀られているのは荼吉尼天という女神だからです。
 荼吉尼天といえば、元々はインドの女神ダーキニーだとされています。
 ダーキニーとは、ヒンドゥー教においては、血と殺戮を好むことで有名な黒い女神カーリーの眷属であり、性や愛欲を司り、人肉や生きた人間の心臓を食らう鬼神。インド仏教では、死者の心臓を喰らうという鬼神です。
 日本でも真言密教では、「外法」と呼ばれる忌まれる信仰の本尊であり、髑髏を本尊に性交の儀式を行ったために邪教扱いされた真言立川流で祀られた神様であります。
 そのような恐ろしげな女神を、小野篂は念持仏として祀っていたというのです。

 これは一体、どういうことなのか……。
 ちょっと恐ろしい気がしました。



 六道珍皇寺についての記事はまだ続きがありますが、長くなりましたので今回はここまでにします。
 この続きは次回に。




*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm





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